平和について考える。
実弾射撃に挑戦
銃身に対して肩を当てて一発ずつ撃つ。反動が大きい。撃った後の薬莢は大きく吹っ飛ぶ。音は乾いた音。AK47はアサルトライフルだが10発ほど連射ができるようで連射をしてみた。小説「バトルロワイアル」でマシンガンの銃撃音の描写が「ぱらららら」とされていたがまさにそんな感じ。
続いてハンドガン。マシンガンより反動は小さいがドラマのワンシーンのように片手で撃つにはもっと慣れが必要だと思った。
しかし2発撃ったところでハンドガンが故障wかわりにM60を撃つことに。M60は重い。そして火力が強い。いちいちデカい火花が見える。
以上、実弾射撃体験終了。全然、的に当たらなかった。笑
実弾射撃をして感じたこと。
それは「人を殺すのはごく容易である」という恐ろしい感想だった。
※この文章のみでは誤解を招きかねない。文末のまとめで補足する。
続いてキリングフィールドへ
キリングフィールドについて紹介する前にポル・ポト政権について少しだけ触れる。
今でこそ、アンコールワット遺跡などで観光しやすそうな明るい印象を持つカンボジアは一昔前に暗い歴史を持っている。
1975年〜1979年に起こったポル・ポト政権による虐殺だ。
当時の国民800万人のうち300万人が虐殺されたと言われている。内紛やベトナム戦争での空爆を受けたカンボジアに国力はなく、ポル・ポトは農民を中心とした共産主義思想で国の立て直しを図った。
ここまでは聞こえがいいかもしれない。ポルポトの危険な思想はここからだ。
ポル・ポトは自身の政治体制の欠陥を見抜く知識人階級(医師・教師・学生・僧侶)に恐れを抱いていた。
知識人たちは強制連行された後、拷問の末に無理に罪を自白させられ虐殺された。
この知識人狩りはエスカレートし、「メガネをかけている」・「外国語が話せる」→インテリ?、「手が柔らかい」→非農民?、「腕時計をしている」→富裕層を彷彿とさせる?などの理不尽な理由で連行に至ったという。
カンボジアに多数あるキリングフィールドとは処刑場のことだ。
今回訪れたのは最も有名なプノンペンから30分ほどの場所に位置するキリングフィールド。写真はキリングフィールド内の慰霊塔。
連行された人々は以下の写真のような農具や武器で撲殺された。費用がかかるからということで銃は使用されず、人々は苦痛の中で虐殺された。
(銃殺と撲殺を比較した時に「死」という結果は同じだ。だが「殺害される」という過程において、撲殺は死に至るまで時間がかかり、苦痛はより大きいものであると考えられる。)
このキリングフィールドでは約15000人の人々が殺害されたという。
人々は手足を縛られ、目隠しをされてトラックで連行されてきた。最も多いときは1日300人が連行され、殺害されたという。以下の写真は殺害した人々を埋めた穴。(保護のために現在は屋根がついている)
以下の写真は乳幼児が殺害された木。
遺族による報復を恐れたポル・ポトは一族根絶やしという手法を取った。乳幼児は母親の前でこの木に叩き付けられ殺害された。我が子の死を目の当たりにした母親は絶望の末に殺害された。(ポル・ポト政権の倒壊後にここを訪れたカンボジア人は何故この木に血液や脳みそがついているのがわからなかったという。この木に頭を叩き付けられ、頭が破裂した乳幼児のものだった。)
現在、この木には冥福を祈る人々によりミサンガがかけられている。
毎年5/20になると各地のキリングフィールドでは慰霊祭が開かれ、暗黒の時代に犠牲になった人々への祈りが捧げられるという。
実弾射撃場とキリングフィールドを巡ってみて…
実弾射撃の項目で述べた「人を殺すのはごく容易である」という感想。この感想は[人を殺すことに対して何の感情もない場合]、という前提なしでは誤りだろう。
(もちろん今の自分にとっては容易ではないだろう。感情が邪魔をするからだ。)
ここで正しく言い直そう。
[人を殺すことに何の感情もなくなった時]、「人を殺すのはごく容易である」と思った。
引き金ひとつ引けば、圧倒的な破壊力をもった銃弾は相手を射抜き、命を奪ってしまうと実感した。
ポル・ポトが兵士に採用したのは13歳以下の少年だった。
彼らに徹底的に教育を施し、人を殺すことについて何の感情も抱かないようにした時にどうなるか。
考えただけでも恐ろしい。
またキリングフィールドに連行される前に収容されたトゥールスレン強制収容所(約15000人(?)が収容。生存したのはわずか8名)の看守も少年であったという。
ポル・ポトはまだ「悪の思想」が植え付けられていない子どもを利用したのだ。
(処刑の際に銃は使用されなかったというので、実弾射撃の話とはまた別の類の話にはなるが)人を殺すことに対して感情を失った子どもたちが粛々と処刑を行なっていた状況を想像すると胸が痛む。
ぼやき
時に国家は強大な権力を利用して恐ろしいことをしでかす。
たった4年間で人口の3分の1にあたる300万人を虐殺したカンボジアの悪夢は我々にそう語りかけているように感じた。
先日、韓国を訪れた際に「今の安倍政権はどうなっているのか?」と聞かれた。
海外メディアでは安倍政権による日本の右傾化について懸念を抱く声も多いとのことだ。
例えば集団的自衛権。
軍事的な手続きなどについて一切の無知のため、集団的自衛権が本当に今の日本の安全を守るものになりうるかは、わからないのがホンネだ。
そのため集団的自衛権公使の容認or反対について議論できないもどかしさは残る。
この問題については時間のある旅先で様々な本を読むこともできるし、旅の後に大学に戻ってからでも研究できる。(その前にいろいろと動きがあったら更に後悔しそうだ。早急に取り組まなくては。)
自分が納得できないのは安倍首相のしようとしたことだ。
彼は解釈改憲というトンデモナイことをしようとしたのだ。
端的に言えば「自分は○○がしたい。ただそのためにはこのルール(憲法)が邪魔だな。よし、いっそのこと解釈を変えて自分のやりたいことをやってやろう。」
国家の最高法規である憲法に対して、安倍首相の軽々しい姿勢には失望した。
憲法改正の手続きを取った後でやりたいようにやるのは納得できるが、「解釈を変える」という言葉のもとに憲法違反をしようとした輩に、民意を汲み取る気があるとは到底思えない。
気付けば話は集団的自衛権の公使容認か否かという問題から安倍首相の人望問題にすり替わっているが、今後もこの事態を見届ける必要はあると思う。
「気付いたら手遅れに…」という事態だけは避けなければいけない。
カンボジアの悪夢の教訓を活かさなければ。
カンボジアの実弾射撃場、キリングフィールドは平和について考えるのに最適なスポットだった。
カンボジアの、そして祖国である日本のこれからの平和を願わずにはいられない。
では、また。